番町麹町界隈『わがまち人物館』
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薩摩出身の海軍大臣として活躍。

樺山資紀(かばやま すけのり)  1837-1922

 明治の海軍軍人・政治家。伯爵。薩摩藩士として薩英戦争・戊辰戦争に従軍した後、西南戦争では熊本鎮台参謀長として熊本城を死守する。その後警視総監兼陸軍少将に昇進し、さらに海軍に転じて明治19年に海軍次官となる。第1次山縣内閣、第1次松方内閣で海軍大臣を歴任。第2回帝国議会において、海相として“日本の今日あるは薩長内閣のため”という「蛮勇演説」を行い物議をかもした。日清戦争直前に海軍軍令部長に就任、明治28年海軍大将に進級。初代台湾総督に就任。その後も枢密顧問官、第2次松方内閣で内務大臣、第2次山縣内閣で文部大臣を歴任した。家庭では、長男の樺山愛輔(貴族院議員、日米協会会長、伯爵)の娘・正子(後の評論家の白洲正子)を溺愛し、好々爺でもあった。『白洲正子自伝』にくわしい。

樺山資紀伯爵の邸宅は、鹿鳴館などを設計したジョサイア・コンドルの手になるもの。ここはまた白洲正子が、生まれ育った邸宅でもある。このあたりの事情は『白洲正子自伝』の「麹町区永田町一丁目十七番地」(現:永田町一丁目11・参議院第二別館付近か)に詳しく載っている。これによれば「その家は1930年頃の大恐慌の際に、串田孫一さんの父上の萬蔵氏におゆずりした・・・」とあり、さらに「戦争のはじまった頃、吉田茂氏の所有となり、ここで憲兵隊に踏み込まれたりして、苦難な時代をすごされたようである」とも書かれ、この邸宅が樺山邸→串田邸→吉田邸と移り変わったことがわかる。

ちなみに、正子の夫白洲次郎は、戦後吉田首相の懐刀として活躍したことは、最近の白洲次郎ブームでよく知られているところ。

ジャンル 海軍軍人・政治家
ゆかりの地(旧) 永田町一丁目17
ゆかりの地(現) 永田町一丁目11番

 ※ゆかりの地での(旧)は旧地番を表記し、(現)とはその場所の現行地番を示しています。
     また、現行地番からのリンク先(既成地図ソフト利用)は、あくまでも「その周辺」とご理解ください。

 

参考文献:


千代田区麹町出張所地区連合町会・地域コミュニティ活性化事業実行委員会